作曲・和声・対位法はどう違うの?
今日は、作曲・和声・対位法の関連と、その違いについてのお話です。
本題に入る前に、作曲とは何か、和声とは何か、対位法とは何かを改めて考えてみたいと思います。
どうしても専門的な内容になってしまう部分がありますが、なるべく分かりやすくお話ししていきます。
まず、「和声」という言葉は、実は大変広い意味を持っています。
そこで今日は、音高・音大の作曲科受験や、ピアノ曲の分析などに役立つという観点から、和声の中でも「機能和声」というものに限ってお話を進めたいと思います。
機能和声とは、トニック・ドミナント・サブドミナントと呼ばれる三種のカテゴリーに属す和音が、カデンツ(終止形)を形成する和声法のことです。そのため、比較的明確なカデンツを持つ、古典派~初期ロマン派を中心とした作品は、概ね機能和声によって読むことができます。
また機能和声には、「和声音」と「非和声音」(和音外音)の概念が存在し、非和声音によって生ずる不協和状態から、和声音による協和状態への変化(これを「解決」といい、原則的に、一つの和音の中で生じます)も多くの作品中で観察することができます。
一方の対位法も、ここでは狭義の意味での対位法、すなわち「厳格対位法」に限ってお話ししていきたいと思います。
厳格対位法とは、二つ以上のメロディを、各々の独立性を保ったまま、音楽を形成する技法(またはその理論と実習)のことです。J.S.バッハを筆頭とする様々なポリフォニー音楽は、厳格対位法にその規範を持ち、器楽的対位法(自由対位法)やコラールとして発展した上に成立しています。
ちなみに、厳格対位法にも、不協和状態から協和状態への変化はありますが、その視点は、あくまで音の横方向の流れ(水平動向)に置かれています。
ところで、和声や対位法には、「課題」と呼ばれるものがあります。
ここが肝心なところです。
学習者は、和声や対位法の課題を「規則」に従って解く(実施といいます)ことで、音の扱いに対する「合理性」を習得していきます。
合理性を重んじる規則には、「声部の進行」「和音の種類とその連結」「和音の構成音の配置」など細かい決まり事があり(これは西洋の音楽家たちが、昔から合理性を重んじ、それを「美」と捉えたことに由来していますが、一部の規則には音の倍音構造に由来しているものもあります)、規則に違反したものを「禁則」と呼んでいますが、学習レベルや教科書の違いによって許容範囲とされる禁則もあります。
和声や対位法に、「正解・不正解」が「ある程度」あるのは、実は、そのためなのです。
さて、それでは作曲はどうでしょう?作曲に対して、和声・対位法はどの様な関係があるのでしょうか?
また、後期ロマン派はもちろん、ベートーヴェンやモーツァルトの作品にも、和声・対位法の規則を破っている箇所が散見されます。
こういった問題を、私たちは、どう捉えたら良いのでしょうか?
まず、大前提として、作曲によって出来上がるものは、言うまでもなく音楽です。
音楽であるからには、前衛音楽などを除いて、和音やメロディが必然的に存在しています。したがって、和声的考察も対位法的考察も可能となるわけです(それらが、必ずしも、機能和声や厳格対位法でなくとも、です)。
ところが、和声・対位法にあって、作曲にない決定的なことが二つあります。
一つは、作曲には課題がないことです。和声課題のようなものは、作曲にはありませんね。
もう一つは、作曲には、他者や先人が取り決めた規則が存在しないことです。
つまり、作曲には「正解・不正解」という概念を自ら作り出していくのです。(あるいは、「正解・不正解」という概念は無いに等しいのです)
そもそも、作曲とは、創作行為です。
創作には、その過程において必然性や、ある種の蓋然性が求められる場合もあります。しかし本質的に、創作行為には、太古から表現の自由が保障され、正答がないものを希求し続けるという意味で、その営みは尊ばれてきました。
和声や対位法ができなくても、作曲はできます。
そして、その作品が大変評価を受けることもあります。
これは、音楽の下地が出来ていたり、単にポピュラリズムに乗ったからというだけでなく、上述したことが関係しているのではないかと思われます。
つまり人々は、良い歌・良い曲に感動するだけでなく、その作曲家にも感激しているのです。
作曲・和声・対位法の違いは、このようなところにあると私は思っています。(宮川慎一郎)